環境づくり部会は、石井学区を「譲治のまち」と位置づけて、
岡山市内の諸団体と協働して以下の活動をしています。
- 岡山市内の「坪田譲治のゆかりの地」に説明板の設置
- 「能登川用水 お魚ちょ~さ隊」川遊び体験会の実施
- 石井学区の「坪田譲治のゆかりの地」を歩く会の実施
- 「能登川」・「心の詩碑」の清掃活動の実施
- 「坪田譲治の街 石井学区」のぼり旗の整備
活動実績
説明看板の設置
No. | ゆかりの地 | 場 所 | 設立年 | 設立団体 |
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島田製織所跡 | なかよし保育園 | 2007 | 坪田譲治を顕彰する会・善太と三平の会 | |
坪田本家 | 岡山市北区島田本町 | 2008 | 坪田譲治を顕彰する会・善太と三平の会 | |
石井小学校 | 岡山市立石井小学校 | 2009 | 坪田譲治を顕彰する会・善太と三平の会 | |
岡山駅 | 岡山駅西口 | 2010 | 岡山市・顕彰する会・善太三平 | |
伊丹家跡 | 岡山市北区御津天満 | 2014 | 顕彰する会・善太三平・御津文化協会 | |
大川(能登川) | なかよし保育園 | 2016 | 坪田譲治を顕彰する会・善太と三平の会 | |
養忠学校跡 | 岡山県立図書館 | 2021 | 岡山歴史のまちしるべ・善太と三平の会 | |
金川中学跡 | 岡山県立岡山御津高校 | 2021 | 岡山歴史のまちしるべ・坪田譲治を顕彰する会 | |
生家跡地 | 岡山市北区島田本町 | 2022 | 岡山歴史のまちしるべ・坪田譲治を顕彰する会 | |
石井小学校 | 岡山市立石井小学校 | 2023 | 岡山歴史のまちしるべ・坪田譲治を顕彰する会 |
(略)顕彰する会(坪田譲治を顕彰する会)
善太三平 (善太と三平の会)
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島田製織所(ランプ芯工場)跡
この地は、譲治の父平太郎が、明治13(1880)年に興した、ランプやローソクの芯を作る島田製織所があったところです。
譲治は、大正8(1919)年岡山に帰り、兄醇一の経営するこの会社に勤めました。
作品の背景にはこの島田があり、ランプ芯工場を舞台にした数々の名作が生まれました。 -
坪田本家
坪田譲治の母方の祖父甚七郎の家で、ここは譲治の本家に当たります。現在の建物は、戦後に建て直されましたが、門から玄関までの「敷石」や「つるべ井戸」は当時のままです。
作品「狐狩り」「お馬」「子供の四季」などに登場するおじいさんは、この甚七郎をモデルに描かれています。 -
石井小学校
明治29(1896)年譲治は石井尋常小学校に入学しました。明治33(1900)年卒業し、御野高等小学校に入学しました。明治34(1901)年、小学校令改正により、再び石井高等小学校に転学しました。明治35(1902)年卒業しました。譲治は作家となっても母校を忘れないで、自分が書いた本を母校に寄贈しました。
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岡山駅西口
通称「善太と三平の像」(永日抄二人)が設置されたとき、像のそばに設立されました。説明板の上には、譲治のゆかりの地が地図で示されています。
明治23(1890)年3月3日、この近くの島田で生まれ、昭和57(1982)年その生涯を閉じた坪田譲治は、ふるさと岡山を舞台にした作品を数多く世に出した小説家・児童文学作家です。 -
大川の泳ぎ場
能登川は、譲治の子どもの頃は大川と呼ばれていました。ちょうどなかよし保育園の辺りが広くなっていて、譲治は子どもの頃、夏には橋の下手でドブンドブンと飛び込んで毎日泳いでいました。石垣の穴からのぞいているドンコツを釣ったり、かっぱのまねをして体に泥を塗ったりして遊び回った思い出の場所です。
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生家跡地
日本三大児童文学作家の一人で岡山市名誉市民である坪田譲治は、明治23年(1890)3月3日、ここ御野郡石井村大字島田(現岡山市北区島田本町2丁目)で生まれました。譲治の作品には生まれ育った故郷岡山が舞台となっている小説・童話が多く、生家についてもしばしば記述されています。
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坪田譲治と石井小学校
現在の石井小学校の学区内で生まれた譲治は、6才でこの小学校に入学しました(当時の石井尋常小学校)。譲治は4年間通い、たくさんの友達や先生方と出会いました。その思い出を小説や童話、随筆に残し、「子ども時代が生涯で一番幸せなときでした」と語っています。
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養忠学校
譲治は石井高等小学校を卒業後、現在の岡山県立図書館のあるこの場所にあった養忠学校に入学しました。
磨屋町にあった私立岡山普通予備学校がこの場所に移転され、養忠学校となりました。
ここで譲治は1年間学びました。2年生のとき、御津郡金川村に移転し、校名も私立金川中学と変更されました。 -
伊丹家の跡
ここ天満の里にある伊丹家は、坪田譲治の姉政野が嫁いだところです。医師である夫の東慶は、地区民の健康を守ると同時に、地域に水道や電力の導入に尽力して、広く人々の信頼をあつめていました。政野も子女を育て一家をささえながら、地域のために役立っていました。
譲治は、当時岡山の島田製織所に勤めていました。折に触れこの地を訪れ、釣りや読書をして心安らぐひとときを過ごしていました。 -
金川中学
譲治が養忠学校2年生のとき、私立金川中学となりこの地に移転しました。金川中学は戦後県立金川高校となり、現在は県立岡山御津高校となっています。
金川中学では、多くの友達や恩師に恵まれて、視野が広がっていきました。譲治は、金川中学を卒業後、早稲田大学に入学します。46才のとき、「風の中の子供」で作家として世に広く認められました。